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メールマガジン会員募集

メールマガジン

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 □■□ 公益社団法人國民會館 メールマガジン 第12号  2013.4.23 □■□
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   ■今回のお知らせ
     (1)「金言」
     (2)5月の武藤記念講座 西山 厚氏
        6月以降の講座予定
     (3)前月迄の記念講座講演要旨のバックナンバー
      4月6日の中西輝政氏の講演要旨は4月10日発行の「友の会おしらせ」
           及び「國民會館ホームページ」に掲載しています。

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 このメールは、当國民會館の主張である「金言」、及び当會館の公益目的事業
の具体的展開について皆様に発信し、同時に皆様からのご意見を折り返しお聞
きすることを目的としています。尚当メルマガは当會館の会員の皆様を始め、送付
をご同意いただいた方々にお送りしています。

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(1)「金言」:國民會館会長 武藤治太
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        河野洋平論

■第1章 政治ごっこに終わった前半生
 第1節 「若きデビュー、政界のプリンスに」
       前号では、お話にならない幼児首相鳩山由紀夫氏について書かせて頂いたが、今回はそ
     れに劣らぬ河野洋平氏を取り上げた。河野は鳩山一郎元首相のもとで農林大臣を務め、日
     ソ交渉でも活躍した河野一郎氏の子息で、1937年(昭和12年)の生まれであるが、父親の
     急死にともない若くしてその地盤を受け継ぎ、1967年(昭和42年)30歳の若さで衆議院
     議員に初当選し、若手時代には「プリンス」と呼ばれ、彼自身の勉強会「政治工学研究所」
     を主宰するなど超派閥的に活躍し、自民党内左派の中堅、若手を束ねる立場にあった。

 第2節 「新自由クラブ旋風、しかしその挫折」
      そして1974年(昭和49年)に田中角栄氏が金脈問題で躓き辞職した際、自民党総裁を目
     指して若手議員の擁立運動に乗ったのであるが、当時の党内実力者の間で後継者が決定し
     ていたため、その野望は挫折したのであった。その結果、1976年(昭和51年)彼は前期の
     「政工研」のメンバーであった西岡武夫氏以下5名と自民党を突然離党して、新自由クラブを
     結成し、その党首に就任した。そして結党直後の総選挙において一挙に17名の当選者を出
      し、新自由クラブブームを巻き起こした。ところが、1979年(昭和54年)に盟友の西岡が自民
     党に復党したため大打撃を受け、総選挙においても惨敗し、代表を辞任する破目となる。

 第3節 「自民党への定見なき返り咲き」
       しかし、1983年(昭和58年)新自由クラブは、総選挙で過半数を割った自民党からの呼び
     かけに応じ、連立政権に参加して、翌年河野は再び党代表に返り咲く。そして1985年(昭
     和60年)には第二次中曽根内閣で入閣して科学技術庁長官に就任した。1986年(昭和61
    年)新自由クラブは党勢ジリ貧のまま解党を余儀なくされ、河野は自民党に復党したのであ
     った。何のための十年間であったのであろうか、河野の信念のなさにはがっかりするが、これ
     も鳩山と同様の「政治ごっこ」と考えれば納得できるのである。

■第2章 自民党復党後、五つの大罪への軌跡辿った後半生
 第1節 「自民党を与党にカムバックさせたが...」
        その後1991年(平成3年)に発足した宮沢喜一内閣の成立に貢献し、内閣官房長官に就
     任する。ところが、1993年(平成5年)小沢一郎氏が議員40名を引き連れ脱党して新生党
     を、武村正義氏が同志10名と共に新党さきがけを結成し、同年の総選挙において過半数を
     割ったため宮沢内閣は総辞職した。この局面で河野は総裁選挙に立候補し、渡辺美智雄氏
     を破って自民党総裁に就任する。一方自民党は野党との連立に失敗したため、日本新党、
     新党さきがけ、新生党の三党連立による細川護煕内閣が誕生し、自民党は野党に転落する。
     然し細川政権は長続きせず、その後任の羽田内閣も短期間で崩壊する。そこで、河野は自民
     党の与党復帰をめざし、自民党、社会党、新党さきがけによる三党連立政権の成立を図り、河
     野は自分の首相就任を断念して、首班には社会党の村山富市を担ぐ奇策に出て1994年(平
     成6年)村山内閣を誕生させる。河野は副総理外務大臣に就任した。この奇策の実態がどの
     ようなものだったのかは明らかではないが、とにもかくにも自民党を与党にカムバックさせたの
     は河野の功績であろう。

 第2節 「首相にはなれなかった与党党首」
      1995年(平成7年)参議院議員選挙で与党が敗退すると村山は河野に政権の禅譲を申し
     出る。しかし、党内の旧竹下派の猛反対にあい、やむなく河野はこの申し出をことわる。一方
     で彼は自民党総裁の再選を目指すが加藤紘一氏らが対抗馬に橋本龍太郎氏を推薦したため
     出馬辞退に追い込まれたのであった。総裁となった橋本は、1996年(平成8年)首相となる。
     こうして河野は、史上初めて内閣総理大臣に就任しなかった自民党総裁となった。その後、
     河野は1999年(平成11年)に成立した小淵内閣の外務大臣となり、小淵の急死後の森内
     閣でも続投した。そして2003年(平成15年)に行われた衆議院選挙後、政権奪還をはたし
     ながら首相に就任出来なかった状況を、見かねた党長老の推薦で衆議院議長に就任した。
       自民党総裁経験者で衆議院議長になったのは河野一人だけである。そして2008年(平成
     20年)次の選挙への立候補中止を声明し、翌年(平成21年)の議会解散と共に議員生活を
     終えた。

 第3節 「つまりは定見なく陽のあたる場所を追い求めた結末」
        以上が河野の政治人生のあらましであるが、総括すると、只ひたすら陽のあたる場所を追い
     続けた彼の姿勢については、抵抗を覚えるものである。彼の政治姿勢は一貫して中国との関
    係をことさら重視する中国重視外交、すなわち親中,媚中派で、言い換えるならば対中国土下
     座外交と云って差し支えない。よく知られたエピソードであるが、1975年(昭和50年)バンコ
     クで行われた東南アジア諸国連合外相会議に出席した際、搭乗機が機体不良で台湾に緊急
     着陸した。彼は中国の外相に 「私は台湾の空港で一歩も外に出ませんでした」と述べ関係者
     の失笑を買ったのである。

■第3章 彼の犯した五つの大罪とは
  次に彼の犯した大罪について述べたいと思う。大罪の最たるものは「河野談話」(慰安婦に
関する談話)であるが、この我が国を覆う自虐史観の元になっている本件については最後に
詳述するとして、他にも幾つもの問題発言、行為があった。

 第1節  そもそも国益を守るべき外相時代の大罪
   1) 「北朝鮮へのコメ支援」
          外務大臣であった2000年(平成12年)彼は北朝鮮へ50万トンものコメ支援を決定し
        た。拉致に関して全く誠意を示さない北朝鮮に対し金額にして1200億円の巨額支援を
        進めたのである。然し北朝鮮はそれに対して何らの謝意を表していない。山崎拓氏は
        「北朝鮮からの食糧要請は最大限すべきである。拉致などの個別案件で支援が出来な
        いというのは、よほどの議論が必要である」とうそぶいている。河野の考え方はこれと全
        く同じと思われる。国連からの要請は19万5千トンで、これをはるかに上回る援助は、
        はなはだ戦略性に欠けるもので、供与したコメの相当部分が軍の備蓄に回ったと云われ
        ている。

     2)「遺棄化学兵器に関する取り決め」
         1997年(平成9年)外務大臣在任中に日本が批准していた「化学兵器の開発、生産、
       並びに廃棄に関する条約」の発効に伴い中国国内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の
       処理について、中国政府と取り決めを交わしたのであるが、対象の毒ガス弾は全量日本
       製ではなくて相当数の中国、ロシア製のものが混じっていたにも拘わらず、全量の処理
       を引き受けてしまった疑いがある。さらに一説には、この条約上、対象物の処理を我が国
       が行う必要は全くないとも云われており、アメリカは、パナマに残した遺棄化学兵器の処
       理を全く実施していない。中国の言いなりになって、はなはだ国益を損じた行為と断定せ
       ざるを得ない。

      3)「李登輝訪日反対」
         2001年(平成13年)台湾の李登輝前総統の訪日問題で中国におもねり自らの外務
       大臣辞任までほのめかし、入国ビザ発行に強硬に反対した。結局李登輝氏にはビザが
       交付されたのであるが、河野が辞任したとは聞いていない。

 第2節  国権の最高機関である衆議院の議長時代の大罪
      「戦没者追悼式における問題発言」
         2006年(平成18年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞において、
      天皇、皇后両陛下のご面前を省みず「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいま
      いにしてはならない」と戦争責任論に言及した。さらに2007年(平成19年)8月15日の同
      追悼式において「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に
      深い傷を負い、今もなお苦しんでいる方々に心から謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げた
       い」とはなはだ場違いな、常識を疑う発言を繰り返した。戦没者追悼式が、どのようなもの
       であるか、彼には根本的に理解出来ていないのである。

 第3節  宮沢内閣官房長官時代の「河野談話」
     「慰安婦に関する談話」
        この河野談話こそ現在我々に突き刺さっている鋭い大きな棘といって差し支えない。こ
      の談話がもとになり、いまだに「従軍慰安婦強制連行」が、これを証明する客観的な資料
        1993年(平成5年)日本政府は「従軍慰安婦問題」に関する調査を実施したのである
      が、調査結果では慰安婦の強制連行を示す証拠は何一つ見つからなかった。しかし、当
      時の宮沢内閣で官房長官の任にあった河野は同年8月「慰安婦関係調査結果発表に関
      する内閣官房長官談話」いわゆる「河野談話」において「総じて本人たちの意思に反して
      行われた」とか「官憲等が直接加担して強制があった」と「強制連行」の事実があった事を
     認めている。しかし、当時官房副長官であった石原信雄氏は「強制連行」を認めたくだりは
      政府の調査結果からではなく、談話発表の直前に韓国で行われた、元慰安婦からの聞き
      取り調査から導き出された一方的なもので、日本政府の調査では、どこをひっくり返して
      も、軍などの日本側当局が慰安婦を強制連行した資料は、確認されなかったと証言して
      いる。元慰安婦の証言には全く裏付けがなく、一方的な被害証言による「慰安婦の強制
      連行」が歴史的事実として独り歩きしているのである。このように「河野談話」の責任は極
      めて重いものがある。
       強制があったことを認めたのは、韓国政府との取引すなわち「慰安婦の名誉回復のため
      とにかく強制があったことは認めるが、日本政府は金銭的な保証は行わない」があったか
      どうかははっきりしないが、おそらく日韓両国関係を配慮してやむなく強制性をいわば善意
      で認めたのではないかと桜井よしこ氏は述べている。ところが河野は平成9年3月31日の
      朝日新聞のインタビユーにおいて、談話の根拠が裏付けのない慰安婦の証言だけと認め
      ているにも拘わらず「自虐史観」にたって語る運動家の謝罪の理屈を心底から信じきって
      いるようで、全くこの人物は信用できない。

■「最後に」
 最近媚中派と云われる鳩山由紀夫、加藤紘一、河野洋平などがせっせと中国を訪問して媚
を売っているが、このような百害あって一利なしの行為は断じて許すことが出来ない。このよう
な行為は中国当局の思うつぼで、はなはだ売国的な行為である。河野は数日前中国を訪問し、
汪洋副首相と会談しているが、どうして現在のような難しい時期に訪中などするのであろうか。

                                (平成25年4月23日 武藤治太脱稿)
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(2)公益事業展開のお知らせ
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◆◆◇5月の武藤記念講座(第975回)の内容
演  題:『歴史に学ぶ 〜 聖武天皇と叡尊』
講  師:奈良国立博物館学芸部長 西山 厚 氏
日  時:平成25年5月18日 (土) 午後1時30分から 2時間
場  所:大阪市中央区大手前 國民會館12階 武藤記念ホール
要  旨:東大寺の大仏は、聖武天皇がお造りになった。聖武天皇は「(大仏を)大きな力で
造るな、たくさんの富で造るな。」と言われた。そののち大仏は二度焼かれたが、そのたび
に同じ考え方で再興された。叡尊は鎌倉時代の僧で、小さな力をたくさん集めるやり方で、
多数の寺々を復興した。私たちはもつと歴史に学ぶ必要があるのではないか。

◆◆◇平成25年6月以降の講座予定
6月 2日(日)   白鴎大学教授  福岡政行氏 (東京講演)
7月 6日(土)   京都大学大学院 教授藤井 聡氏
7月20日(土)   前防衛大臣   森本 敏氏
8月            夏季特別講座  講師日程調整中
9月21日(土)   政治評論家   屋山太郎氏
10月19日(土)  前侍従長    渡邉 允氏 (東京講演)

◆◆◇國民會館顧問の田中卓先生、理事の所功先生のお2人がホームページを開設しま
した。下記URLからお入り下さい。

 田中 卓先生 http://www.seiseikikaku.jp/

 所    功先生   http://syoukansei.fan.coocan.jp

  なお 國民會館ホームページ 関連リンクコーナーからもお入りになれます。

◆◆◇本年度4月より、「友の会」のご案内はメールアドレスを登録の会員の皆様には「メー
ルマガジン」にてお知らせします。郵送をご希望の方には、引き続き郵送を、またメールアド
レスを登録されていない方には、今までどおり文書にてお送しています。

◆◆◇ホームページは平成25年5月1日更新します。是非ご検索下さい。

◆◆◇平成25年4月の「中西輝政氏」までの過去凡そ四年近くの「講演内容要約」の
すべてがご覧になれます。ここ http://www.kokuminkaikan.jp/chair/index.html をクリッ
ク下さい。

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(3)発信者情報
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                http://www.kokuminkaikan.jp  (ホームページ)
所在地 〒540-0008 大阪市中央区大手前2-1-2
電  話 06-6941-2433 Fax 06-6941-2435
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